「西武の秋山」といえば、あなたは誰を思い浮かべる?

阪神ファンの私は、昔はパリーグでは「埼玉西武ライオンズ」が好きだった。それはまさに西武の黄金時代と言われたあの頃のチームだ。各球団のファンも脅威に感じるチームには、3人の主力バッターがいた。それがあまりにもすごすぎて、強烈な印象を残している。
20150919
出典:埼玉西武ライオンズ

2人の秋山

今の時代なら「秋山翔吾」だろう。200安打も達成し、名実共にライオンズの顔になりつつある。2010年のドラフト3位で27歳とまだ若く、これから積み重ねていくというのがプロ野球ファンの見方だ。

2015年10月2日追記:秋山翔吾選手が216安打でシーズン最多安打記録を更新しました、歴史に名を残したのはすごい。

昔であれば「秋山幸二」だろう。西武ライオンズから福岡ダイエーホークスへ移籍後、福岡ソフトバンクホークスでコーチや監督も務めた。だが私にとっての秋山は後者だ。

秋山幸二とは

秋山幸二はとにかくすごい選手だった、メジャーリーグに1番近い選手ではないかと言われ、走攻守全てにおいて高いレベルを誇っていたからだ。

試合数 2189
打数 7997
安打 2157
本塁打 437
打点 1312
盗塁 303
打率 .270

打てば9年連続30ホームラン以上を打ち、3年連続40ホームラン以上も打った。20盗塁以上を記録した年は7年で、1990年は51盗塁で盗塁王も獲得している。6年連続フル試合出場をこなし、とにかく豪快な選手だ。

特に1986年の日本シリーズで「バック宙ホームイン」をしたのは後にも前にもこの選手だけだろう。私はこのシーンを見て「こんなカッコイイプレイヤーがいたのか」と驚いたほどだ。

野球と関係ない面白いエピソードが1つある。2003年に数学者の秋山仁さんの講演会を、依頼者が間違って秋山幸二に依頼したというものだ。謝罪しに訪れた関係者に、講演をお願いされ本人は快く応じてくれたという、器のでかい人だと改めて感じたのを今でも覚えている。

本塁打王と盗塁王のタイトルを獲得しているが、両方のタイトルを持っているのは日本では「秋山幸二」と「金山次郎」の2人だけだ。

当時の西武は史上最強とまで言われた打線と投手陣

当時は球界1と言われる名手の「」がいて、いぶし銀で犠打や盗塁に長けた「平野」がいて、秋山・清原・デストラーデのクリーンナップがいた。下位にも「石毛」や「伊東勤」がいて、隙が無い打線だ。

投手も「工藤公康」や「渡辺久信」、あり得ないほど落差があるシンカー使い「潮崎」や剛速球の「郭泰源」エースの「東尾修」ストッパー「鹿取」など、豪華な顔ぶれが目立つ。もちろん控えの層も厚く、史上最強クラスといっても過言ではないパワーがあった。

秋山・清原・デストラーデの4年間

プロ野球ファンの間では伝説的になっている、この組み合わせ。デストラーデが在籍4年で退団したので、実現したのは4年間だが非常に内容の濃い素晴らしいトリオになっている。

1989年 秋山 清原 デストラーデ
試合数 130 128 83
打数 478 445 292
安打 144 126 75
本塁打 31 35 32
打点 99 92 81
盗塁 31 7 4
打率 .301 .283 .257

1989年に3人が揃う、秋山は3割30本30盗塁のトリプルスリーを達成し、清原もパワーを見せつけ、この頃は足もあった。デストラーデが加入し、83試合ながら32本塁打と荒削りではあったがパワーはすさまじかった。

近鉄とオリックスと西武による混戦の末、最後の最後でブライアントに4打数連続本塁打を打たれるなど、3位に沈んだ。ブライアントも近鉄在籍8年で259本塁打を放った凄まじい打者だったのが印象的です。

1990年 秋山 清原 デストラーデ
試合数 130 129 130
打数 476 436 476
安打 122 134 125
本塁打 35 37 42
打点 91 94 106
盗塁 51 11 10
打率 .256 .307 .263

1990年は秋山が打率こそ落としたが、51盗塁で「盗塁王」を獲得した。清原は本塁打も打率も好調で盗塁が2桁の11と足も見せ付けた。デストラーデは年間を通して活躍し「カリブの怪人」と恐れられ「本塁打王」と「打点王」の2冠のタイトルを獲得した。

この年は「リーグ優勝」して巨人を4連勝で倒して日本一になった年だ。

1991年 秋山 清原 デストラーデ
試合数 116 126 130
打数 455 448 437
安打 135 121 117
本塁打 35 23 39
打点 88 79 92
盗塁 21 3 15
打率 .297 .270 .268

秋山は年によって打率の上がり下がりが激しくなってきたが打って走れるすごみを見せる、清原の打撃は少し落ち着いてしまったが、デストラーデが打って39本塁打で「ホームラン王」と「打点王」の2冠と走って15盗塁と機動力も見せ付けた。

この年は近鉄を破り、2年連続のリーグ優勝し広島カープを破って2年連続で日本一になった。

1992年 秋山 清原 デストラーデ
試合数 130 129 128
打数 480 464 448
安打 142 134 119
本塁打 31 36 41
打点 89 96 87
盗塁 13 5 12
打率 .296 .289 .266

3人が揃う最終年だ、この年でデストラーデが退団する。そして秋山も2年後には福岡ダイエーホークスに移籍し、清原も5年後に巨人へ移籍する。

デストラーデが「本塁打王」を獲得し、秋山と清原の2人も素晴らしい活躍を見せた。

しかしデストラーデが、MLB新球団発足の「フロリダ・マーリンズ」のスカウトとして来日していた、横浜大洋ホエールズで活躍した「カルロス・ポンセ」から誘われ移籍した。移籍して2年後に西武に再入団したが、当時の技術には程遠く現役引退し、アメリカや日本で野球に関する仕事に携わっている。

3人共別々の道に・・・

3選手共に別々の道へ進んでいった、秋山はホークスへ、清原は巨人へ、デストラーデは海外へ。私が初めて秋山という選手を知ったのは、1986年の「バック宙ホームイン」だ。とても素晴らしい選手で、監督としても評価が高く、人格者としても知られている。

2014年を持って秋山は監督を退いたが、6年間で3度のリーグ1位でAクラス5回と日本一2回という手腕が印象的でした。

出典:ソフトB秋山前監督夫人・千晶さん死去 11年オフから闘病

秋山氏と千晶夫人は94年11月に結婚し、長女の真凜さん(18)をもうけたが、01年には生後間もない長男・晃輝ちゃんを亡くす不幸があった。それでも千晶さんはプロゴルファーを目指した真凜さんの遠征では、自らハンドルを握り、全国各地を飛び回る元気なお母さんだった。ただ、真凜さんは母親の看病もあり、プロゴルファーの夢を断念。新たな夢へ向かって大学進学を決めた時には病に伏す妻の代わりに秋山氏は学校の説明会にも参加したという。

秋山幸二は私の大好きな選手の内の1人で、監督業の最中にも私生活で様々な苦労があった。11年オフから妻の看病をし、妻に代わって長女のゴルファーへの夢を応援して、日本中を一緒に飛び回りながら監督もこなしていた。

今やレジェンドと呼ばれる秋山だが、人間として選手として監督として尊敬しているし素晴らしい方です。今は解説やプロ野球に関する事に携わっているが、私はずっと応援しています。だって野球が好きになったのは、秋山さんのおかげなのです。



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